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<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>www.inuiyosuke.jp : 10-BLOG</title><atom:link href="http://www.inuiyosuke.jp/feed/news.xml" rel="self" type="application/rss+xml" /><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/</link><description></description><language>ja</language><copyright>copyright 2011</copyright><lastBuildDate>Tue, 20 Dec 2011 18:16:03 +0900</lastBuildDate><generator>WM 4.42 (YOSUKE INUI Design Office)</generator>
<item><title>ウェブ・デザインについての覚え書き</title><description><![CDATA[ある人とウェブ・デザインについてやり取りする必要があって、その時のメモをまとめたものです。箇条書きで人に伝えるものではないですが、僕が思うウェブ・デザインへの考え方が少しは表れているような気がします。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />- デジタルは実世界にどれだけ貢献したかで価値が決まる。<br class="WMADDED" />- デザインは、クライアントのブランディング指針を導くもの。デザインとは、クライアントの20年を導き作ることを目標とする。<br class="WMADDED" />- 以前は大企業しか社会的役割をまとめる場がなかったが、ウェブは安価であり、中小企業が社会的役割をまとめて、内外に宣言する機会を得ることが出来た。これが中小企業、店舗、地域経済、個人に与えたインターネットの大きな価値。<br class="WMADDED" />- 店舗や個人、中小企業のウェブサイトで最も重要なことは実のブランディング。クライアントが宣言する内容、を指針で示して上げることが仕事の最重要ポイント。<br class="WMADDED" />- クライアントのこと、バックボーン、文化的背景、地理的背景、経済活動など、ブランディングに関わることは深く深く調べあげる。名刺一枚のデザインをするにしても、ブランディングに則っていなければ優れたデザインはできない。逆に、名刺一枚から始められるブランディングはある。<br class="WMADDED" />- 内外にブランディングを宣言することとは、外に向かうのは当然だが、内部に向かって選択と集中、覚悟と誇りを促すこと。<br class="WMADDED" />- ブランディングを表すために、ウェブのデザインは本来必要ない。写真や文章、説明図など、ブランディングの表現に力を注ぎ込むべきで、ウェブサイト制作自体は安価であるべき。撮影した写真などブランディングの表現はクライアントの財産になる。ウェブ・デザイン自体は財産となりにくい。クライアントにとって、価値あるデザインを。<br class="WMADDED" />- ブランディングを示すこと。つまりコンテンツ。それを最優先するためのデザインを行う。細かい説明を全てしなくても良い。商品を全て掲載するのは必要条件ではない。<br class="WMADDED" />- ウェブの画面デザインは、画面上のコンポジションなど、ゾーニングのレイアウトを整える事に集中する。領域を明快に分けることで、角要素の役割の理解を促す。<br class="WMADDED" />- 画面上のコンポジションは、クライアントのブランディングを導くものであること。テクスチャなど具象を使ったイメージ作りは控え目に、メタファで印象を導く手法に可能性を感じる。<br class="WMADDED" />- ウェブサイトは基本的にスライドショウ・ゲーム・ムービーの3種類の性質しかない。または組合せや部分。HTMLはスライドショウで、順に画面表示を変更して行くものだと考える。例えば５秒ごとにキャプチャを撮ったものを並べたもの、と考えると良い。デザイン上のインタラクティブなど、ブランディングにほとんど関係がない。<br class="WMADDED" />- エフェクトは自由だが、ウェブサイトがスライドショウであることを忘れずに。眺めるだけの動画にならないように。エフェクトを見せるとブランディングが理解できる訳ではない。そこに目的は不在。<br class="WMADDED" />- ナビ、バナー、補足情報など、そのページで伝えるべきコンテンツが埋もれるようなデザインをしてはならない。<br class="WMADDED" />- ナビを目立たせるのは間違い。操作することはウェブサイトの目的ではない。コンシェルジュのように控え目に。<br class="WMADDED" />- そのページの情報構造から、各要素を配置する。例えば前後の重なり順を意識すること。基本はコンテンツが最も手前であり、ナビは最も後ろとする、など。<br class="WMADDED" />- トップページはブランディング、またはその概要説明に特化するべき。お知らせは別ページにまとめる。始めて会った人が、今どんな活動をしていて進捗はどうだ、などの話をズラズラし始めると引く。まず、どんな人かを知った上で興味が湧く。<br class="WMADDED" />- コンテンツは、クライアントとそのブランディングに出来るだけ近い方が良い。CMSなど。究極はクライアントを知ること自体がブランディングになる。コンテンツが気に食わなければクライントに方針を指し示し、導くこと。<br class="WMADDED" />- CMSは自由に入力できるものより、ブランディングに則して入力のフォーマットが制定されているべき。<br class="WMADDED" />- ウェブ・デザイナーの役割は、ブランディング指針を示し、クライアントを導くこと。<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=10</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=10</guid><pubDate>Tue, 20 Dec 2011 18:15:53 +0900</pubDate></item>
<item><title>数年前に考えていたこと</title><description><![CDATA[久しぶりに以前に書いた文章を読む機会があって、未熟な部分や間違っている部分も見つけつつ、今でも共感できることも多く発見がありました。既に考えが動き初めているものもありますが、この起点を記しておくことは、僕にとって重要であるようにも感じました。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />既に人の目に触れる機会がなかった文章ですが、折角に掘り出されたので5つほどここに載せさせて頂きました。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=9</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=9</guid><pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:47:40 +0900</pubDate></item>
<item><title>当たり前を積み重ねること</title><description><![CDATA[たぶん、デザインしている人なら何となく分かっている共通認識的に良いことというものがあるように思う。基本、とも言えるかもしれない。形態の論理とかもたぶんそれだ。これらのことはあまりに普通のことだと思われがちで意識的に語られることも少ないけれど、実はとても大切なことなんだと思う。何から何まで守らなければならないとかそう言う話では無いけれど、当然のことだと思える、自身の感性と合致することであれば、それを意識的にカタチに組込んでいくことが少しでも良くすることに直接的に繋がることだとも思う。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />つまり、当たり前を積み重ねること。その良いとされている当たり前のことがどれだけ意識されてカタチに組込まれているか。最近になってその積み重ねが多いものが良いカタチだと思うようになった。もちろんそれは「普通」ではない。でもトリッキーでもない。トリッキーな表現の裏に当たり前の積み重ねがあれば良いのだけど、トリッキーにしようとしてなったものはどうも薄っぺらい。<br class="WMADDED" />もちろんデザイナー個人の意志や情熱を否定したくはないし、それは非常に大切だと思う。譲れないところは最後まで持っておかなければならないと思う。（でもそれは個人的な嗜好のためではなく、カタチに骨を作り、最終的に目的を適えるための手段、程度に自覚的に思っている方が良いと思う。）集団の思考だと普通に陥りやすいし、一人の情熱と感性を組み入れられたカタチの方が面白く、その人に積み重ねる能力があれば筋が通っていて良いものになると思う。<br class="WMADDED" />カタチを考えている時にふと思う。今目の前にあるカタチが良いのかどうか。あるべき位置付けに近い姿か。目的は適えられているか。トリッキーなアイデアを思いついたからと言ってそれにこだわり過ぎていないか。なぜ納得できないのか。ではどうするか。<br class="WMADDED" />僕はトリッキーなことがしたい訳ではないとようやく分かってきた。僕は求められることを全うしたい。そしてデザイナーとして、そのプロジェクトに関わるからにはとにかく少しでも美しく、良くしたいと思う。<br class="WMADDED" />とにかく目立つことが目的だったりトリッキーであることが条件であって、それに対して意図的なものを見ると「関係のないもの」として片付けられる。そうではなく、客観的に見るととあまり必要でなかったり、目的が適えられていないようなものもある。そういう結果に陥ることは避けておきたい。特にそれが内向的なもの、応用性／汎用性のないもの、つまり文化的でないものにどうも嫌気がさしてしまう。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />「新しいは既存の組み合わせでしかない」というある哲学者の言葉を、僕は結構本気で信じている。積み重ねるとは、今までの歴史の中で、人が考えて良いとしてきたカタチを引き継ぐこと、つまり文化的と言っても良いかもしれない。そして、その当たり前を積み重ねることをどこまでできるかと言うのが、デザイナーの力量だと思うのだけれど。<br class="WMADDED" />（2009.03.28）<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=8</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=8</guid><pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:46:59 +0900</pubDate></item>
<item><title>20年後をつくるデザイン</title><description><![CDATA[<img src="http://www.inuiyosuke.jp/db_ja/blog/7_20.jpg" width="340" height="453" alt="20年後をつくるデザイン"><br class="NODB"><br class="NODB">最近とても良い話を聞く機会に恵まれた。ある方との雑談の中で聞いた言葉なのだけど、最近になって強く意識していることと妙に繋がって「ああ、そういうことか。」と、渇いた砂が水を吸い込むように納得できた。（誤解のないように記しておくが、「その人」が指すのは、もちろんクライアント側の立場にいる人のことで、決して設計者のことを指すものではない。）<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />最近になって強く意識するようになったこととは、それがどう在るべきなのかというイメージ。恐らく建築を例えにするのが伝わり易いと思う。たとえば山奥の大自然に建つ寺院、最近訪れた中でも例として適しているのはたぶん浄瑠璃寺（上写真）。どのような行為が、どのような場所で行われるのかを見据えて、その空間がどのようにその場所に在るべきかを問う態度と言えば良いのだろうか。浄瑠璃寺は旺盛な樹に囲まれた山深い地に、ふっと広がる池泉式回遊庭園、それに厳格な軸線を配す緊張感が、山深い場所に建つ寺院という聖域を際立たせている。この場所にどのように寺院があるべきかという問いに対して、妙に納得できる回答がある。場の在り方というよりその存在の在り方——その存在がどのような存在で在るのか——を示し、感じられるものになる。それが、昨今で最も成功している例で言えばappleのデザイン戦略からも見えるように、その人／組織という存在を作り上げるデザインの力だと強く認識するようになった。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />とにかく変わっている、とにかく目立つ、とにかく破壊する、というようなデザイン、確かにクライアントの要望または一つの可能性を指し示すことを目的として、それを適えているのだろう。でも、言いようのない違和感を感じている僕がいる。何かが「違う」と思ってしまう。その違和感は何だろう、とずっと感じてきた疑問の答えが「その人／組織の２０年後を作る」ものかどうか、という課題に見えてくるように思える。<br class="WMADDED" />細かな状況にもよるけれど、穏やかな海岸に建つ美術館の在り方として、「ガラスの高層ビルが良い」と言い切れる人はなかなかいないだろう。なぜそう感じるのかは別の問題として、そのような感覚をより具体的に感じてイメージすること、その場、その状況、その在り方において、どう在るべきかを指し示すことがデザインなのだろう。デザインの語源は諸説あるが、「de-sign：signたらしめること／指し示すこと」が有力な説の一つであることを思い起こさせる。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />その存在の在り方を指し示すこと、その言い方を少し変えると「その人／組織の２０年後を作ること」となるのだと思う。10年だと一時と言える程度に短過ぎて、50年では実感できない。もちろん数多くの寺院のように数百年後までの在り方まで指し示すことが出来れば、それは凄いことなのだろうけれど、僕が実感できる範囲より少し飛躍し過ぎている。むしろ「その人／組織の２０年後を作ること」を通じて、本当にそれが的確であれば数百年後まで残る可能性がある、と言った方が僕にとっては現実的に捉えることができるのだけど。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />デザインに限らず選択を迷ってしまう場合がある。「どう在るべきか？」ということに対して、最良の回答を見つけようとするのは当然なのだろうけれど、「20年後はどう在って欲しいか？」という問いを抱くように考えると、より現実的なイメージが浮かぶのではないだろうか。そう考えることで、少なくともde-signを業としている僕自身にも、少しは目指すべき展望が見えてくる気がしている。<br class="WMADDED" />（2008.05.30の文章を修正）<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=7</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=7</guid><pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:46:35 +0900</pubDate></item>
<item><title>日本的なること</title><description><![CDATA[<img src="http://www.inuiyosuke.jp/db_ja/blog/6_20.jpg" width="570" height="380" alt="日本的なること"><br class="NODB"><br class="NODB">南禅寺清流亭にて「日本的なること」と題された民族藝術学会の特別例会に参加させていただいた。鷲田清一氏、喜多俊之氏、成実弘至氏の三氏がそれぞれ理論、実践、現象の側面から「日本的なること」を眺めようとするような構成。定義できないものに立ち向かうというところで、やはりなかなか難しいテーマであるようにも思うが、日本で活動する我々にとっては常に考えさせられるテーマでもある。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />単一の空間ではなく、複数の空間の存在を感じさせること。日本的な空間の特徴の一つに、境界を超えてその向こうにどこまでも空間が広がっているような感覚を受けることがある。そういうとなんだか空間の把握が容易でないように思うけれど、しかしいろいろな日本の空間を見ていると複雑な空間でありながらそこから沸き上がる感情としては簡明という印象を受ける。日本の空間に見られる奥ゆかしさと簡明の共存という両義的空間の感覚、それは日本に固有の文化性だと思うし、この感覚を基にカタチを作れるのは世界でも日本人、もしかするとアジア人、しかいないだろう。それは日本人が心地よいとしてきたことだからこそそこにあるのだろうし、日本の気候風土に合う文化なのだろう。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />少し前にスペインの建築家に、日本的な空間を西洋の視点から見るとどう感じるのかと思い、感想を聞いてみたことがある。それほど期待せずに聞いてみたのだけど、内側から見るよりもとても冷静な感想を聞く機会を持てることができたのは幸運だったように思う。それに僕の解釈を加えて簡単に説明すると、西洋の建築はモニュメンタルでオブジェクティブだが、日本（アジア）の建築は——この場合、建築というより空間という方が正確かも知れない——それぞれの要素が音楽のように響き合って関係を作り、そのことによって「環境」を創造しているように感じる、と。それぞれの要素が響き合うということは、まずそれぞれの要素を独立したものと認めつつその特徴や性質を捉えることが前提になっているように思う。そこに物に魂を込め、神を宿らせるアニミズムと一神教の境を感じたわけだけど、日本人の感性を考える上でアニミズムはいろいろ整理ができるなかなか便利な考え方であるのは確かのようだ。人も物も特別な「主」ではなく、常にその中の関係に埋もれながらも振る舞い続けるものであり、その振る舞い方を大切にしていると考えると、少なくとも僕はいろいろとすんなり納得できるのだけど。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />これだけで全てを説明できるわけではないだろうし、断言などとてもできそうにもない。しかし少なくともこのような文化性は消しようもなく、日本人のどこか奥底に引き継がれているように感じる。その日本の文化にどっぷり浸かって過ごしてきた我々は、どうやってもその文化からは抜け出せないように思う。無理に抜け出そうとしても無理矢理な、ちぐはぐな状態を生み出すことにならないか。いや、そもそも幼い頃から身体に刻まれてきた感覚を消す、などということは到底できそうにもないことだ。どうやら「日本的なること」は我々の身体に潜んでいそうだ。<br class="WMADDED" />そして最も重要なことは、無理にオランダ人の面の感覚、ドイツ人の厳格さを真似るよりも、その身に染み込んでいる感覚でカタチを捉えること、そのずぶとく強い個性を持った文化性——地域性と言っても良いが、それが世界にも通用するものにもなり得るのものだとも思う。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />ふと禅の言葉を思い出す‥‥随処作主。全てはそれぞれ自身の内にある。そして理論からカタチが生まれることはない。つまり我々は良いと感じられるものや他の文化との差異を道具として、そしてほんの少しの理論を研磨剤に、それを身体から削りだそうと必死に努力しているのかもしれない。<br class="WMADDED" />（2006.11.19の文章に加筆・修正）<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=6</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=6</guid><pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:44:36 +0900</pubDate></item>
<item><title>意識すること</title><description><![CDATA[「シュレーディンガーの猫」というと事実と観測者の関係を示すときによく引用される量子物理学者の言った有名なエピソードです。なにかと目にすることも多いエピソードだから気になった方は少し調べるとすぐに見つかると思いますのでここでは詳記しませんが、つまりは観測者の目がないと事実は決定せず現象は記録されないということ。事実は我々が思っているよりもっと曖昧で混沌としているのです。<br class="WMADDED" />例えば夕方に流れるニュース番組。いつも不思議に思うのはネガティブなニュースがあまりに多いこと。実感として僕の身の周りではそれほど不幸な出来事などないし、むしろ楽しいことの方が多い。でもニュースを見ていると世の中で起きていることのほとんどがネガティブなことのような気になってしまいます。ニュースに流れていることが世の中を端的に表しているとは到底思えません。国内全体を押し並べてみてもネガティブなことが占める割合は僕が体験していることとそれほど変わりないと思います。しかしニュースではなぜこうもネガティブなことが世の中に蔓延しているように見えるのか。それはメディアの怠慢だと言ってしまっても良いかも知れないけど、事件は警察などの政府関係機関に集まりやすく、そこに記者（観測者）の目が集中しているのが原因なのでしょう。彼らの仕事は世の中の流れのようなものを我々に示すことが仕事だし、それも一つの観測点からみたことだから間違いとは言えません。でもたかが一つの観測点からみた世の中の一つの断面図に過ぎません。一つの断面図では基本的な構成が分かったつもりになりますが、そこに描かれている以外の部分は見えなくなることもあります。むしろそちらを想像する力がその断面図を見る人に求められるのでしょうけど、そんなことも断らずにメディアはどんどんと情報を流しています。情報の正確さや客観性を訴える記者はテレビでよく見かけますが、そもそも記者の立つ視点は限定されているように思います。<br class="WMADDED" />基本的に我々は、目の前にあるものですらそれが何か正確に掴めないでいるのです。もう少し踏み込んで言えば、そもそも正確なものなど何一つ存在していないと言えるでしょう。「シュレーディンガーの猫」が示すように、真実を探求し明確にしようと試みる科学の最先端の分野でも真実は明確でないということが言われているのです。<br class="WMADDED" />ある視点でものごとを判断するとそれから漏れてしまう部分があるということ。これは我々がモノのカタチを決定する時にも言えることです。モノのカタチを決定するということは、そのカタチで受け止められないあらゆる可能性を排除することです。そのプロジェクトで考えたり思いついたりすることを全部一つにまとめると、ふわふわとして捉えどころがありません。無論、設計者が考えることは最終的に現れる成果物よりずっと多いはずです。あるカタチを決定することは、その他の混沌として曖昧な部分を切り捨てることになります。こう言うと語弊があるかも知れませんが、デザインはそれらの可能性を捨てて限定することです。しかしその限定は、ある可能性に向けての展望であるべきで、拘束的な要件であってはならないものだと思います。<br class="WMADDED" />ですが、そうは言ってもモノのカタチを決めるということはその他の可能性を排除することに変わりはありません。その排除される可能性に目を向けると、僕はカタチを決定するということの恐さを感じます。だけど、そうすることで新しい可能性を生み出せることに喜びも感じられます。デザインとはその切り捨てるものと可能性への展望の両者を共に意識しながらカタチに責任を持つことなのだと思います。そして、その意識をより多くの領域で持つことが良いデザインなのだと思います。<br class="WMADDED" />我々は日常の中ではものごとに対して驚くほど無意識でいます。日々の中で一つ一つ意識できることを増やしていくことがその人の生活になること、それがデザインをすることなのだと思います。「センスが良い」というフレーズはよく聞くけれども、英語のsense本来の意味は「意識」に近いのですから。<br class="WMADDED" />（初出：京都造形芸術大学通信教育部補助教材「雲母」12月号掲載に加筆・修正）<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=5</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=5</guid><pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:39:39 +0900</pubDate></item>
<item><title>ブリコラージュ——「らしさ」のつくりかた</title><description><![CDATA[建築や携帯電話、インターネットなどの分野に限らなくても昨今の技術の進化はめまぐるしい。それが生活に関与するものかどうかに係らず。40年ほど前まではそのような状態を無邪気に喜べるような幸せな関係であったようだけど、最近はなんだか窮屈に感じることも多くなったように思うし、ちょっと矛盾気味だけど、以前と変わっていること自体、当たり前のことのようになってきている。<br class="WMADDED" />その中でも、稀ではあるけれど、本当に面白いと思うものにも出会うこともある。でも僕のその感情は技術の進歩とは関係がないように思っている。むしろ先端技術を見せびらかすようなものを退屈に感じてもいる。新しいのが良いとか古いのが良いとか、どうもそんな単純な話ではないように思っていて、生活やら身体性といった言葉を良く使うのだけれども、そもそもそれらはどうのように組立てたものなのかというところに僕は興味がある。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />タイトルにある「ブリコラージュ」とは、レヴィ＝ストロースが提唱した概念で、すぐ手元にあるものでものを作る器用仕事と説明される。例えば、よくブリコラージュの説明で使われる小枝などで作られる鳥の巣は、鳥にとって身近な素材である木の枝などを集めて作ったものである。このような素材の扱い方や技術の話は、動植物については明解に説明が付くけれど、「人について」話をすると途端にややこしくなってしまう。まず「すぐ手元にある素材」というのがなかなか厄介だ。現在の流通社会からすると木の枝なんて手に入りにくく、むしろ鉄骨やプラスティックの方が入手しやすかったりするし、website上の文字や画像などはコンピュータ上ですぐにでも生産可能だったりするから。ブリコラージュの素材の扱い方、本来の目的と違う使い方をすること、とは違うと思うかも知れない。でもコンピュータや鉄骨の本来の目的って？それらを生み出した経緯は知らないが、僕たちにとっては既にただそこにあるもので、木の枝とあまり変わらないものなんじゃないかと思っている。とすると、これらの中にも「すぐ手元にある素材」として扱えるものがあることを前提にしないと、ブリコラージュの現代的な意味はなかなか量れないように思う。<br class="WMADDED" />小鳥にとっては巣作りに利用する小枝は、慣れ親しんだ素材である。それをどのように組み合わせると巣となるのかは把握しているはずだ。弾性や限界耐力、節、形状などの全体の特徴を長所短所とも、理論的にではなく感覚的に感じ取っているだろう。昨今は洗濯干し場のハンガーなどでも鳥の巣が作られるようだけれども、ハンガーも小枝と同じように「すぐ手元にある素材」であるのであれば、ハンガーは小枝に似た素材というよりは鳥にとってはハンガーも把握しうる素材と言った方が正確かもしれない。「すぐ手元にある」とは、物理的な距離ではなく、こういった「把握しうる／特徴を全て感じ取れる」ということではないだろうか。それはその生命体にとって身体の一部として扱える素材と言って良いと思う。<br class="WMADDED" />それらの素材をどう組立てるのかが技術なんだろうけど、その技術も情報社会においては理論的な技術はもちろん、口伝の技術もどこそこに存在している。技術も保守性というよりは、その技術が生み出すものがどのような特性を持つのか、またその技術自体の特性を把握すること、感覚的に理解し、それを操作・活用することがブリコラージュ的手法だと思う。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />流通社会ではすぐ手元が拡大し、情報社会では技術の革新性も一瞬のうちに消失するような状況を考えると、ブリコラージュとは全ての事がらを自分の力で把握できるもの、つまり身体的な感覚を持てるものを身体的な感覚をもって組み合わせていくことなんだと思う。手の中のものを手の中でこねくり回して組立てる作業というか。設計作業で行われるスタディやエスキスなどは、そのプロジェクトの要件などの身体化を図る作業と考えられないだろうか。まず組み合わせる素材、組み合わる技術を把握することから始めて、やっとそれを使いこなして適切に応用することができるはずだ。わけの分からないことに挑戦する先端技術を否定するわけではないけれど、それは身体を無視した創造だと思う。ただ新しいだけ、ただ作っただけの、感覚というか意志の欠如したものは面白くない。例え、それが身体性を獲得しようとする方向だとしても。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />創造において、その人の「らしさ」を創出するには、そのプロジェクトに係る要件を逐一身体化していくことが必要ではないだろうか。そしてその要件、素材や組立て方を全て了解したときにやっとその人の身体的な感覚を伴うものを生み出すことができる。僕はそれがブリコラージュ的創造であって、身体性を獲得したデザインだと思う。そのデザイナーの身体として組み合わされたものは、やはりそのデザイナーの身体的な感覚で組立てられた、その人独自のものになっているはずだ。僕は、そこにこそその人の「らしさ」を感じるし、それを感じないものはひどく退屈なものに感じてしまう。<br class="WMADDED" />技術はどうしても進化し続けるもので新しい技術も結構だけど、その長所も短所も把握し特徴を捉えた上で「どう扱うか」を問題にしなければ生活に係れるものは創造できないだろうし、その人「らしさ」も生み出せないように思う。そしてその「らしさ」のみがこの消費社会で唯一特徴を持ち得て、意味のあることのようにも思う。<br class="WMADDED" />（2006.09.04の文章に加筆・修正）<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=4</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=4</guid><pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:36:43 +0900</pubDate></item>
<item><title>家紋の右前</title><description><![CDATA[<img src="http://www.inuiyosuke.jp/db_ja/blog/3_20.jpg" width="150" height="150" alt="家紋の右前"><br class="NODB"><br class="NODB">形にまで礼儀作法が整っている日本の文化の繊細さには、たびたび驚かされます。その一つが右前です。日本では右側が手前になる形を伝統的に吉とされています。着物や祝袋の右前（みぎまえ）を思い起こしていただくと良いのですが、逆の形は不祝儀とされる左前とされていたり、これらは作法として定着しています。ところが家紋の中には凶とされる左前に見えるものが多いのを不思議に思っていました。以前に家紋研究家の方に伺ってみたのですが、はっきりとした論は示して頂けなかったものの、興味深い話を教えて頂きました。その方によると「右前は、右が手前という意味ではなく、右が先の意である」ということでした。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />右前が吉であるというのは、平安時代の宮中の着物の作法から始まったとされています。理由は手の置き方など諸説ありますが、弓が引けないように着物を着るというのも理由の一つのようです。右前に着ると、弓を引き放つ際に着物の上前の部分に弓の弦が引っ掛かってしまいます。現代の弓道でも、肌脱ぎと呼ばれる所作で、左肩を露出させてから弓を引きます。騎乗で弓を引く騎馬民族は日本と逆に左前で着物を着ています。右前は宮中で弓を引くことがないようにする作法だったのかも知れません。ともかくは、平安時代の宮中から着物は右前で着る習慣が出来上がったと考えられています。<br class="WMADDED" />着物を右前に着るのが礼儀であったなら、その着る方法を人や自分の子に教える際に「右側を先に持ってくる」と伝えていたでしょう。「人から見て、右側が手前になるように」と言うより「右側が先に」と伝える方が分かり易いからです。右前の「前（まえ）」は、「その前に行う」「その後で行う」などの時間軸を指すものだと捉える方が自然だと思います。<br class="WMADDED" />また、日本の思想の根源には「草木国土悉皆成仏」があります。全ての物に仏が宿るという意です。少し乱暴な言い方ですが「人のためだけに存在しているものはない」とも言えます。着物や祝袋にも確固たる独立した魂が宿っている主体なのですから、それ自身の吉の形があるはずです。「他の人から見て‥‥」という前提自体が「草木国土悉皆成仏」の思想に反するものですから、「右前は右を先に」という解釈で間違っていないと僕は考えています。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />このように右前を「右が先」と解釈すると、疑問だった家紋の形も違った見方ができるようになります。左前に見えた家紋は、実は「右を先に」描いた右前の形のように解釈し直すことができます。もちろん「草木国土悉皆成仏」の思想下では、その主体が人からどう見られるかより、その主体がどう成り立っているかを軸に捉えるべきです。家紋も仏が宿っている主体ですから「家紋自身の右側」を先に描く形になっています。家紋は飽くまで絵として、先に描くとその部分が先に仕上がって、後で描く部分は後に重なった形で描かれる、そのように見ることも出来ます。<br class="WMADDED" />僕にとっては、家紋の右前の謎に答えてくれる解釈ですが、どうでしょうか。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />追記：<br class="WMADDED" />家紋研究家の方と、この件についてお話させて頂きました。改めて古い紋帖を調べて頂き、江戸時代の紋帖では重ね方が見た目で「右前」になっているとご指摘頂きました。二つの異なる紋が横に並ぶ比翼紋に、この重ね方の起源が見えるそうです。家紋研究家の方も「調べて始めて確信を得た」と仰って、大いに盛り上がってお話して頂きました。<br class="WMADDED" />手元にある数冊の紋帖では見た目で「左前」が多かったのですが、これは僕の調査不足による勇み足だったようです。明治から昭和の出版物には混乱も多く、そのまま現在まで混在し、どちらが正しいとも言えない状態になっているそうです。しかしこの件で紋は、絵としてではなく、奥行きを持った空間を描いたものだったようです。<br class="WMADDED" />なお、自戒を込めて、この文章は残しておきます。<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=3</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=3</guid><pubDate>Thu, 14 Jul 2011 17:50:31 +0900</pubDate></item>
<item><title>刺激を頂いた言葉</title><description><![CDATA[少し前に仕事上の先輩でありクライアントになって頂いている方とお会いしていました。デザインの考え方などにも面白いやり取りがあったものの仕事の話もそこそこにし、人生の歩み方や姿勢についてお話頂き、大変に刺激になったのでメモ。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />・とにかく誠実に。<br class="WMADDED" />・目の前のことに全力を傾ける。<br class="WMADDED" />・名刺はしっかり持つ。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />当たり前のことなんだけど、これらは突き通しておきたいと気持ち新たに思いました。仕事に対して誠実なのはもちろん、常に意識していたけれど、社会に対して誠実であろうとするのはなかなか難しい。ある意味、クライアントに対して誠実であることは楽なのかも知れない。今まで社会に対して誠実であれただろうか、と反省を踏まえながら今までを振り返ってみる良いきっかけを頂きました。<br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=2</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=2</guid><pubDate>Mon, 04 Jul 2011 00:59:03 +0900</pubDate></item>
<item><title>乾陽亮設計事務所ウェブサイトのデザイン刷新のご挨拶</title><description><![CDATA[この度、乾陽亮設計事務所ウェブサイトのデザインを刷新しました。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />僕のウェブサイトを見る人なんておられないように思っていましたが、先日アクセスログを調べる思った以上にご覧頂いているようで驚きました。本当にありがとうございます。<br class="WMADDED" />今後はちゃんとウェブサイトを管理しようと思い、「まずはカタチから」という決意をもって項目を整理して、デザインを刷新しました。それに伴って今後に更新する可能性のないページは削除しました。もし、以前のページをご利用頂いている方がおられたなら、個別にご対応させて頂きます。お気軽にご連絡ください。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />twitterからでも。@で頂くと必ず拝見します。<br class="WMADDED" /"><a href=\"http://twitter.com/inuix\">http://twitter.com/inuix</a>"<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED" />今後とも宜しくお願いします。<br class="WMADDED" /><br class="WMADDED">]]></description><link>http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=1</link><guid isPermaLink="true">http://www.inuiyosuke.jp/ja/blog/?id=1</guid><pubDate>Sat, 25 Jun 2011 01:07:29 +0900</pubDate></item>
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