1. All*
  2. デザイン
  3. ウェブデザイン
  4. 日本の伝統文化

WRITING 11 Apr 2013


現代折形という考え方

IMG: 現代折形という考え方「おりかた」とは、江戸時代中期〜後期に掛けて、紙を折ったものや紙を折る方法を呼ぶ際の呼称です。折形の研究者、荒木真喜雄先生は著書の中で「折り方と書く方が正確だろう」と仰っておりますが、通例に従い折形と記されていますので僕もそれに倣おうと思います。紙を折る方法なので、他にも「折(り)方」や「折型」と記したそうですが、現在では「折形」と書くのが通例になっています。
折形を「紙を折る方法」だと説明すると、現在では「おりがみ」と呼ばれている範囲であることに気付くでしょう。事実、江戸時代中期頃に考え出された折り鶴も折形と呼ばれています。1797年に発行された「秘傳千羽鶴折形」は連鶴の折り方を49種集めた書で、連鶴の権威として現在でも著名な本です。ちなみに江戸初期は折って据えるもの、「折据(おりすえ)」と呼ばれていたようです。現在でも「折据」と呼ばれる折形の基本的な形が伝わっていますが、昔からある基本的な形なので昔の名前で呼ばれ続けているのだと思います。
僕は折形、現在でいう「おりがみ」と呼ばれる範囲は4つに分類することができると考えています。簡単に説明すると、折り鶴を代表とする「遊戯折形(遊戯おりがみ)」、彫刻のように龍や動物などを1枚の紙から生み出す「創作折形(創作おりがみ)」、袋にして使うなどの「実用折形(実用おりがみ)」、そして祝儀袋など贈答の場で作法を示す「儀礼折形(儀礼おりがみ)」の4つです。今日でおりがみと言うと、前二つの遊戯折形と創作折形を思い浮かべることが多いでしょう。そのため、誤解を生まないために実用折形と儀礼折形を併せて「折形」と呼ぶようになったようです。折形とは実用的だったり儀礼の場で使われているおりがみ、紙の折り方である、と考えて頂いて大丈夫です。
実は、儀礼折形は戦前までは女学校でも教えているところがあったそうで、袱紗の包み方などと共に女性が学ぶ礼儀作法として定着していたそうです。戦前に女学校に行かれていた方の中には折形を見て「懐かしい」と言われる方もおられます。しかし戦後に学校などで教えることもなくなり、封筒や祝儀袋などが安価な値段で売られるようになって、家庭で実用折形や儀礼折形を用意することがなくなり、廃れていったと考えられます。
なお、たまに「おりがた」と濁って発音される方もおられますが、恐らく折形の伝承が廃れ「折形」という漢字だけが残り、戦後に誤って読まれたのが東京を中心に広まったものだと思います。正確には「おりかた」と読み、1935年に発刊され始めた広辞苑をはじめ、どの辞典にも「おりかた」として掲載されていますが、「おりがた」という言葉は見当たりません。しかし、誤りが普及してしまうもの悲しさはありますが、既に「おりがた」という呼び名も普及しており間違いとも言えなくなっています。
折形という言葉を巡る現在の状況を、僕なりの解釈で簡単に説明すると以上のようになります。

折形とは「紙を折る方法」ですから、紙を使う上で必要であり、また使っていると自然と作法や良い使い方、面白い方法が生まれてくるものだと思います。その折形の歴史を語るには、日本における和紙の歴史と深く関わっています。
紙の歴史は、中国で蔡倫という人が製造技術を確立したとされていますが、それまでも植物の繊維を固めたものはあり、貴重品を包む保護材で使われたりしたそうです。蔡倫の製造技術で品質が安定して薄く書画に適した紙が作られるようになったというのが現在の大勢の解釈です。それが日本に伝わるのは飛鳥時代頃、日本での製造は奈良時代に始まったとされています。平安時代には紙の製造を担う朝廷の付属施設として「紙屋院(かんやいん)」と呼ばれる製紙工場が設置され、日本独自の技法「流し漉き」がここで確立し、和紙の生産が増えたそうです。源氏物語に見られるような歌を贈る文化もそういった紙の生産が増えたから興った文化でしょう。この頃、「薄様(うすよう)」と呼ばれる薄手の紙を染め、内の手紙と外の包みで季節に合わせた「重ね色」を施して渡す文化もあったようです。(※重ね色とは日本独自の着色方法で、2つ以上の色を重ねて地の色がほんのり表に現れる色味のことです。その微妙な色味に季節の情景や花に見立て、季節を表すこともありました。)
また薄く白い紙は穢れのない無垢なものされ、神道などで白い紙を折って「神折符」とし、神様に祈りを捧げる儀式に使ったり、お守りや呪術とすることもあったそうです。当時でも一色に染めることはよくされていたようですが、逆に白く漂白することがどれほど難しいかを考えると、白い紙が清浄なものとして見なされた気分も理解できると思います。
おりがみは平安時代頃に興ったとされていますが、紙の生産が増え、紙にまつわる文化も同時に興っていったようです。ただ、紙の生産が増えたとは言え、まだまだ貴族や神道の儀式でしか使えない貴重品であったようです。
室町時代に入ると、武力から文化で支配する時代になったとされています。家の間で贈り物をして友好を示した贈答の文化もこの頃に育ちます。当時は貴重だった杉原紙10帖を一束とし扇一本を加えて「一束一本(いっそくいっぽん)」という贈答の基本的な形などが武家の間で整えられていました。現在伝わる折形(=儀礼おりがみ)の形もこの頃に整えられたとされています。この頃の折形は家同士の付き合いのため、誰から贈られたものであるのか示すために家ごとによって包み方が異なったそうです。ちなみに、公家の包みは紙ではなく絹だったそうです。現在でも掛袱紗など現在でも結納などの場で絹の袱紗が使われています。室町時代は、日本の文化の原型が数多く生まれた時代のようです。
安土・桃山時代あたりになると、和紙の生産が爆発的に増えたようです。中国への輸出も盛んに行われ、貿易の重要品目の一つだったようです。江戸時代の大坂の取扱い品目のTOP3は米、木材、紙だったそうですから、いかに大量に生産され、品目として重要視されていたのか伺えます。当時、欧州から中国を経て日本に布教しにやってきたイエズス会の宣教師が日本の滑らかで美しい和紙を見て、その品質の高さに驚いたという記録も残っています。
江戸時代になり、和紙は庶民に普及するまでになりました。折り鶴が生まれたのは江戸中期頃とされています。正確には分かっていませんが、着物の文様や家紋の紋帖に折り鶴の図柄が現れるのがこの頃です。庶民が気軽に紙を使うようになり、遊びで折ることが出来るほどに普及していたのは間違いないでしょう。開国した明治時代に西欧人が懐紙で鼻をかむ庶民を見て「なんたる贅沢」と驚いたほどだったそうです。この頃に折形の形は爆発的に増え、色々な遊びや実用的な包みなどが生まれました。江戸時代の儀礼折形も相当の変化があり、染めた10枚の紙を重ねて折り包む形など、紙を贅沢に使う形が生まれてきました。
また江戸時代は印刷が発展した時期でもあります。真白な紙では商品価値が低くなってしまったのか、紙に文様を施した千代紙が作られ、人形や箱、包み紙などに使う素材として売られました。印刷物として紙に絵や文字を印刷して売ることは考えられることですが、使途が定められずに文様が施された紙が生産されるのは、和紙の歴史の中でもかなりセンセーショナルな出来事だったと思います。当然に、遊戯折形や儀礼折形にも取入れられています。現在でも祝儀袋の一部に友禅紙(千代紙の一種)が使われているのを店頭で見ることが出来ます。
もうひとつ、江戸時代は折形の文化にとって避けられない書物が一つ残されています。伊勢貞丈の「包結記」です。当時の礼法を伝える家に伊勢、今川、小笠原、吉良などの家があり、これらの家は朝廷や公家、他家への贈答の作法などの指南役になることが多かったそうです。これらの礼法は基本的には一子相伝で伝えられていました。その中で伊勢流の作法が文献で残されており、当時の折形の作法が現在に伝わっています。現在では他流派の方も伊勢流の「包結記」を参照されているぐらい折形の権威として認められている書物です。逆に言うと、ちゃんとした形でまとまって残っている最古の資料が伊勢流の「包結記」だけになります。当時の儀礼折形に向かう姿勢などが感じられて大変興味深いものですが、ただこれも折形の文化のごく一部に過ぎなかっただろうと思います。もちろん他にも各家で独自の作法があったでしょうし、さらには利休好み、織部好み、遠州好みなど個人の名を冠した折形も伝わっています。庶民も折形を楽しみ始めたこともあり、恐らく数え切れない数の折形が江戸時代に生まれたと推測できます。最近でも、たまに古い農家や商家の蔵から折形の未知の型が発見されることがあります。日本全国の家でオリジナルの折形が考え出され、楽しまれていたのだと思います。
その後、明治時代から昭和初期ごろまでは女学校でも作法の一つとして教えられていたそうですが、戦後に急速に廃れ、結納や祝儀袋など一部で残るものの、その存在を知る人も少なくなっています。

折形の歴史を知ると、もっと気楽に創意工夫をして折形を楽しんでも良いのではないかと思えてきます。家や人、さらに地域によって特色ある折形が楽しまれていたと思います。例えば、金沢の結納の折形は派手で有名ですが、金沢らしさが感じられて面白いと思います。
ただ、日本の形の作法として守らなければならないこともあります。日本では右前の形、「左上位」が基本とされています。折形もそうですが、書や襖、着物など全てのもの形は、基本的には右前になっています。右前=左上位であるのは、草木国土悉皆成仏、全てのものに仏性があるという平安時代の日本の思想から来ています。つまり折形はそれ自体が主役であり、見られることを基本としていません。折形それ自体の左側が上位となり、その形を我々から見ると右側が手前になった形になっています。また、右前は「右側を先に仕舞う」と解釈する方が自然である、という意見も多く、僕もその意見に賛同しています。右側を先に仕舞って左を後に仕舞うので、結果として左上位の形になります。
なぜ左上位なのかは諸説ありますが、代表的な2つの説を簡単に紹介しておきます。一つは農耕民族として太陽信仰があるからだという説。北に鎮座し南を向くと太陽は左側から登りますので、朝日の登る左の方を上位としたとされています。もう一つは、宮中での着物は「右襟にすべし」というお達しが奈良時代にあったからという説。その理由は右襟で弓が引けなくするためだったようです。モンゴルや中東の馬上で弓を引く騎馬民族は左襟です。弓道の姿を思い起こして頂ければ分かりますが、右襟だと引いた弓の弦が襟に引っ掛かります。この宮中の安全を高めるための規則がそのまま形として受継がれている説も有力とされています。または、これらの2つとも理由かも知れませんし、他にも色々と都合が良くてそう決まっていったのかも知れません。少なくとも、右前の形は日本の中では吉とされ続けた形です。
ただ、ややこしいのは文明開化の影響で左前の形も普及しています。明治以降の書物には右前と左前の混乱が見られることも多く、注意が必要です。最近は江戸時代以前の文化を尊重しようという風潮ですが、既に今日では文章は左から右へ、左前の形で書くことが定着していますし、雛人形も東京では左前に置きます。このあたりは多少の気軽さを持って接するべきなのかも知れません。
もちろん、他にも細かく作法はありますが、地域で大きく異なり、共通した作法は定められそうにありません。ある地域では凶とされていることが他の地域では吉と定められているなど反対の作法すらあります。正確な作法を知りたければ、その町にある結納屋さんが守り続けているものが正解だと思いますが、結納屋さんも少なくなり、正確な作法を知ることも難しくなっています。このあたりは右前などの基本的な作法は外さず、他は地域や文化の事情が分かる範囲で対応していくしかありません。

僕は折形を格式高い儀礼折形だけだと解釈していません。各家や各人で創意工夫し、紙を折り使うことや贈ることを楽しんできた文化だと解釈しています。他にも、折形に匂いと呼ばれる色紙や千代紙を差し込んで「差し色」とする技法があったり、水引を工夫したり、木版画で描かれた女性の簪(かんざし)から本物の紐が垂れているなど、手芸と呼ぶ方が適しているような色々な創意も施されていたようです。贈られ受け取る人もその中身の物だけではなく、包みの創意工夫や折った人の心遣いや気持ちまで受取り、楽しむことができる紙の折り方が、現代で折形を楽しむということだと思います。
特に、現代は何に使う訳でもなく真白な紙が家庭にあります。コピー紙などのA4用紙です。少し前までは半紙などがそうだったのかも知れませんが、墨と筆を使うことも少なくなった今、家に半紙を常備している方よりA4用紙を常備している方の方が圧倒的に多いでしょう。安くて同じ寸法の真白な紙を大量に持っていること、これは長い紙の歴史の中でも実はかなり特殊な状況だと思います。さらに現代は印刷技術が発展し、各家庭で即座に印刷物が作れる状況です。その折り方に合わせた千代紙が数分で手に入ると考えれば、折形の楽しみ方も増えるように思います。このように考えたのがA4折形というプロジェクトです。( http://www.a4orikata.jp/
江戸時代に創意工夫し楽しんだ折形のように、伝承の型にはまらず気負うことのない折形を現在の生活に合わせて楽しむ。贈って楽しく受け取って嬉しい。僕は現代の折形の楽しみ方をそのように考えています。