WRITING 04 Sep 2006


ブリコラージュ——「らしさ」のつくりかた

建築や携帯電話、インターネットなどの分野に限らなくても昨今の技術の進化はめまぐるしい。それが生活に関与するものかどうかに係らず。40年ほど前まではそのような状態を無邪気に喜べるような幸せな関係であったようだけど、最近はなんだか窮屈に感じることも多くなったように思うし、ちょっと矛盾気味だけど、以前と変わっていること自体、当たり前のことのようになってきている。
その中でも、稀ではあるけれど、本当に面白いと思うものにも出会うこともある。でも僕のその感情は技術の進歩とは関係がないように思っている。むしろ先端技術を見せびらかすようなものを退屈に感じてもいる。新しいのが良いとか古いのが良いとか、どうもそんな単純な話ではないように思っていて、生活やら身体性といった言葉を良く使うのだけれども、そもそもそれらはどうのように組立てたものなのかというところに僕は興味がある。

タイトルにある「ブリコラージュ」とは、レヴィ=ストロースが提唱した概念で、すぐ手元にあるものでものを作る器用仕事と説明される。例えば、よくブリコラージュの説明で使われる小枝などで作られる鳥の巣は、鳥にとって身近な素材である木の枝などを集めて作ったものである。このような素材の扱い方や技術の話は、動植物については明解に説明が付くけれど、「人について」話をすると途端にややこしくなってしまう。まず「すぐ手元にある素材」というのがなかなか厄介だ。現在の流通社会からすると木の枝なんて手に入りにくく、むしろ鉄骨やプラスティックの方が入手しやすかったりするし、website上の文字や画像などはコンピュータ上ですぐにでも生産可能だったりするから。ブリコラージュの素材の扱い方、本来の目的と違う使い方をすること、とは違うと思うかも知れない。でもコンピュータや鉄骨の本来の目的って?それらを生み出した経緯は知らないが、僕たちにとっては既にただそこにあるもので、木の枝とあまり変わらないものなんじゃないかと思っている。とすると、これらの中にも「すぐ手元にある素材」として扱えるものがあることを前提にしないと、ブリコラージュの現代的な意味はなかなか量れないように思う。
小鳥にとっては巣作りに利用する小枝は、慣れ親しんだ素材である。それをどのように組み合わせると巣となるのかは把握しているはずだ。弾性や限界耐力、節、形状などの全体の特徴を長所短所とも、理論的にではなく感覚的に感じ取っているだろう。昨今は洗濯干し場のハンガーなどでも鳥の巣が作られるようだけれども、ハンガーも小枝と同じように「すぐ手元にある素材」であるのであれば、ハンガーは小枝に似た素材というよりは鳥にとってはハンガーも把握しうる素材と言った方が正確かもしれない。「すぐ手元にある」とは、物理的な距離ではなく、こういった「把握しうる/特徴を全て感じ取れる」ということではないだろうか。それはその生命体にとって身体の一部として扱える素材と言って良いと思う。
それらの素材をどう組立てるのかが技術なんだろうけど、その技術も情報社会においては理論的な技術はもちろん、口伝の技術もどこそこに存在している。技術も保守性というよりは、その技術が生み出すものがどのような特性を持つのか、またその技術自体の特性を把握すること、感覚的に理解し、それを操作・活用することがブリコラージュ的手法だと思う。

流通社会ではすぐ手元が拡大し、情報社会では技術の革新性も一瞬のうちに消失するような状況を考えると、ブリコラージュとは全ての事がらを自分の力で把握できるもの、つまり身体的な感覚を持てるものを身体的な感覚をもって組み合わせていくことなんだと思う。手の中のものを手の中でこねくり回して組立てる作業というか。設計作業で行われるスタディやエスキスなどは、そのプロジェクトの要件などの身体化を図る作業と考えられないだろうか。まず組み合わせる素材、組み合わる技術を把握することから始めて、やっとそれを使いこなして適切に応用することができるはずだ。わけの分からないことに挑戦する先端技術を否定するわけではないけれど、それは身体を無視した創造だと思う。ただ新しいだけ、ただ作っただけの、感覚というか意志の欠如したものは面白くない。例え、それが身体性を獲得しようとする方向だとしても。

創造において、その人の「らしさ」を創出するには、そのプロジェクトに係る要件を逐一身体化していくことが必要ではないだろうか。そしてその要件、素材や組立て方を全て了解したときにやっとその人の身体的な感覚を伴うものを生み出すことができる。僕はそれがブリコラージュ的創造であって、身体性を獲得したデザインだと思う。そのデザイナーの身体として組み合わされたものは、やはりそのデザイナーの身体的な感覚で組立てられた、その人独自のものになっているはずだ。僕は、そこにこそその人の「らしさ」を感じるし、それを感じないものはひどく退屈なものに感じてしまう。
技術はどうしても進化し続けるもので新しい技術も結構だけど、その長所も短所も把握し特徴を捉えた上で「どう扱うか」を問題にしなければ生活に係れるものは創造できないだろうし、その人「らしさ」も生み出せないように思う。そしてその「らしさ」のみがこの消費社会で唯一特徴を持ち得て、意味のあることのようにも思う。