WRITING 28 Mar 2009


当たり前を積み重ねること

たぶん、デザインしている人なら何となく分かっている共通認識的に良いことというものがあるように思う。基本、とも言えるかもしれない。形態の論理とかもたぶんそれだ。これらのことはあまりに普通のことだと思われがちで意識的に語られることも少ないけれど、実はとても大切なことなんだと思う。何から何まで守らなければならないとかそう言う話では無いけれど、当然のことだと思える、自身の感性と合致することであれば、それを意識的にカタチに組込んでいくことが少しでも良くすることに直接的に繋がることだとも思う。

つまり、当たり前を積み重ねること。その良いとされている当たり前のことがどれだけ意識されてカタチに組込まれているか。最近になってその積み重ねが多いものが良いカタチだと思うようになった。もちろんそれは「普通」ではない。でもトリッキーでもない。トリッキーな表現の裏に当たり前の積み重ねがあれば良いのだけど、トリッキーにしようとしてなったものはどうも薄っぺらい。
もちろんデザイナー個人の意志や情熱を否定したくはないし、それは非常に大切だと思う。譲れないところは最後まで持っておかなければならないと思う。(でもそれは個人的な嗜好のためではなく、カタチに骨を作り、最終的に目的を適えるための手段、程度に自覚的に思っている方が良いと思う。)集団の思考だと普通に陥りやすいし、一人の情熱と感性を組み入れられたカタチの方が面白く、その人に積み重ねる能力があれば筋が通っていて良いものになると思う。
カタチを考えている時にふと思う。今目の前にあるカタチが良いのかどうか。あるべき位置付けに近い姿か。目的は適えられているか。トリッキーなアイデアを思いついたからと言ってそれにこだわり過ぎていないか。なぜ納得できないのか。ではどうするか。
僕はトリッキーなことがしたい訳ではないとようやく分かってきた。僕は求められることを全うしたい。そしてデザイナーとして、そのプロジェクトに関わるからにはとにかく少しでも美しく、良くしたいと思う。
とにかく目立つことが目的だったりトリッキーであることが条件であって、それに対して意図的なものを見ると「関係のないもの」として片付けられる。そうではなく、客観的に見るととあまり必要でなかったり、目的が適えられていないようなものもある。そういう結果に陥ることは避けておきたい。特にそれが内向的なもの、応用性/汎用性のないもの、つまり文化的でないものにどうも嫌気がさしてしまう。

「新しいは既存の組み合わせでしかない」というある哲学者の言葉を、僕は結構本気で信じている。積み重ねるとは、今までの歴史の中で、人が考えて良いとしてきたカタチを引き継ぐこと、つまり文化的と言っても良いかもしれない。そして、その当たり前を積み重ねることをどこまでできるかと言うのが、デザイナーの力量だと思うのだけれど。